れん便り 24号
2020.1.1
昨年から入所施設の利用者さんと月に一回外出しています。
先日彼がそっと腕を組んできてくれて、一対一の豊かな世界を実感しました。
月一回彼に会うことで、入所施設で働いていた頃のことを思い出すことが増えました。
@利用者さんの親睦会のこと
月に一回、職員会議と同じ会議室を使い、自由参加で行っていました。
放送で呼びかけると、たくさんの利用者さんがやってきました。
作業室に行くときには嫌がるTさんが、おぼつかない足取りでやってきます。(多くの場面で介助を必要とする人です。)
職員が目を離すとガラスを割ろうとするYさんもやってきました。
その頃、施設ではみんなでお金を出し合って、夜に果物を食べたり、休日にはピザを取って食べたりしていたので、果物やおやつの相談をしました。
旅行の行き先も相談しました。その頃はグループ分けをして5,6人で旅行をするようになりました。全員で行っていた頃よりずっと楽しくなりました。
言葉を話せる人は恥ずかしそうにですが、必ず発言してくれました。「職員がちゃんとしてくれないからグループホームに行かれへんのや。」と爆弾発言をした人もいました。
私が何より驚いたのはT君やY君が会議の間、じっと座っていることでした。
出入り自由の会議だったので、ついている職員もいません。
それなのに、いえ、だからこそ彼らはそこに参加していたのだと思いました。
@震災後のこと
家をなくした職員は施設のデイルームで寝泊まりしていました。
その頃日課はなく、水汲みとトイレ掃除ばかりしていたような気がします。
職員は元気をなくし、日課がなくなったせいもあり、職員の指示する言葉も聞こえなくなりました。施設内はとても静かになりました。一時的なものとはいえ、共同体のような雰囲気がありました。
その中で、利用者さんのいわゆる問題行動が少なくなっていきました。
その時、私はやっと気が付きました。職員こそが彼らにとっての最大の環境要因であることに。彼らの問題行動とされていることの多くは、支援者サイドの問題から引き起こされていることに。
この通信で昔のことを書いたのには訳があります。
1月8日に、相模原事件のU被告の公判が始まることを知ったからです。(実名がれん便りに残ることが耐えられないので、イニシャルにしました。)
お正月から本人さんや家族の方につらい記憶を呼び覚ますであろうことを申し訳なく思いながらも、書きたい気持ちを抑えることができませんでした。
重度の知的障がい者は何もわからない人たちと言い放った彼に対する、反論をどうしてもしておきたかったからです。
何もわからないのは彼らではなくあなたです、と。
長く入所施設で働いてきた私としては、Uが働いていた施設はどんなところだったのか?自らの責任という認識が薄く、被害者サイドのような会見を開いた施設長はどんな理念を持っていたのか?
現場の職員は事件前、何を思い、どんな仕事をしていたのか?そして事件後は何を考え、どんな行動を起こしたのか?と。
最近、その結果を知って愕然としました。
TY園は66名定員の二か所に分かれ、一か所はかつてと同じ場所に建設されるということを。こんな事件を経てもなお、地域移行は進まないのかと。
まだ措置制度の時代に北海道の施設を訪れたことがあります。とても熱心に地域移行を進めているところでした。
そこの施設長さんに言われた言葉を今でも忘れることができません。
「入所施設の職員は絶えず地域に返す努力をし続けないといけない。結果として重い障害の人を出すことができないとしても。そうでなければ、僕たちの仕事は刑務所の監視人と同じになってしまう。」
障害者権利条約も、差別禁止法も、支援費制度も、自立支援法も。総合支援法も地域で暮らすことを権利としてきたのではないでしょうか?
本人さんの意思を確かめるために地域で暮らす機会を作ってほしい、職員にも地域支援を経験してほしい、保護者の方もチャレンジすることを認めてほしいと強く思っています。